3月19日 タケノコ先生の異動、ひとりになる学校
大学の障がい学生支援室のタケノコ先生が、今月末で異動になるのだそうです。
昨年12月から、私の学校生活から家族とのことまで広く相談に乗ってくださっていて、ほんとうにお世話になりました。とくに、私の授業中のサポートのために、先生方への情報共有や配慮の申請書類などこまごまとした準備をしてくださっていました。
今回の支援室での面談は、タケノコ先生との最終回。
新しい先生との顔合わせになると聞いていましたが、何やらまだ次の先生は未定なのだそうです。来学期に向けた準備(各授業の先生への配慮願い書類)と、次に来る先生への引継ぎ事項の確認をしました。
1年留学していた私は、4月からいよいよ、すべての授業をひとつ下の学年と一緒に受けることになります。
気心知れたクラスメイトたちはもう教室のなかにいなくなる。困ったときに頼れるうさちゃんもネコちゃんも、いつでも助けにきてくれるしーちゃんもいなくなる。
それに加えて、大学のなかの避難所だった支援室から、タケノコ先生までいなくなってしまいます。
新しい先生がどんな人であれ、出会ってすぐに、弱ったときに駆けこめる先になるわけにはいかないと思うのです。
今学期が終わればこうなることは、わかっていたわけで。
そのために、私なりに準備をしてきたつもりなのです。
1学期の間、半分くらいの授業を一緒に受けてきた同じ学科の下の学年の子たちとは、顔見知りよりちょっと先の、ぺちゃくちゃ喋れる仲になりました。
でも、なんでも話せる関係の子なんて、ひとりもいない。
そりゃ、2年生の途中から急に教室に現れた先輩だもの。
ペアやグループを組む仲間はもう決まりきっています。誰かが帰省すると、遠慮がちに私にもお土産が回ってくる。
それでも、それでも、心を決めて、息をちゃんと吸って、すごく仲が良いわけではないけど信用のおけるふたりの後輩に、自分の特性のことを話しました。「こういう状態のときは困っているから、こんなふうにたすけてほしい。」
初等教育の学生として、発達障害のことやその支援については知識のある後輩です。無理解や偏見の心配はしていなかったけれど、ひとつだけ恐れていることはありました。
そしてその危惧は当たったような気がします。
私はやっぱり彼らのなかで、
「一緒に授業を受ける、英語がプレゼンが上手いすごい先輩」
から、
「勉強はできるけど、ちょっと『要支援』な人」
に、変性してしまったのだと思います。
人からの見られ方は、すごく気になります。
だから、嫌だった。ホケカンや支援室に行くのも、友達に話すのも。
とくに、同じ教室で勉強する仲間には、絶対に知られたくなかった。
でも、嫌だと思っていても、必要性のあることばかりなのです。
パニックで動けなくなったとき、助けを求められる相手がしーちゃんだけでは、だめのです。
嫌だったけど、担任の先生に話しました。
嫌だったけど、それを英語科の先生方全体に共有していただきました。
気が進まなかったけど、他の先生方への配慮願いの紙も書きました。
すごく嫌だったけど、同級生や後輩の何人かに、自分の頭と体のことについて話をしました。
年が明けてから、準備をすすめてきたつもりでした。
タケノコ先生やしーちゃんがすぐ近くにいなくなっても、ひとりでちゃんと、「たすけて」って周りの人に言えるように。
頼れる先をちょっとずつ増やして。片側ずつ補助輪を外すように、少しずつしーちゃんなしで行ける場所を広げて。
長い時間をかけて、ちゃんと心も環境も、変化に備えさせてきたつもりだったのです。
だけど、今日からもう、タケノコ先生に会えない頼れないことを思うと、寂しさとともに、焦りと心細さが押し寄せてきます。
春休みが終われば、タケノコ先生だけでなく、うさちゃんネコちゃん、しーちゃんがいなくなった大学に毎日通わなければいけないのだという実感が時間を経るごとに湧きだします。
そんなに急に、手を離さないで。
いま、ひとりで進む練習してるの。時間かかってるけど、まだ練習の途中なの。
みんな一度にいなくならないで。
私、まだ準備できてないよ。まだだよ。
ひとりになっちゃうよ。
嫌なこともがまんして十分に備えてきたはずなのに、そう思ってしまいます。