10月27日 妹の新車
数日前、実家に新車がやってきました。
運転免許を取った妹のための車です。幼い頃から人魚姫に憧れ、大学でダイビング部に入った妹は、深海のような青い車を選びました。
何度か妹が運転するその車に乗せてもらいました。
ウインカーと間違えてワイパーを作動させたり、駐車券の機械に寄せられなくてチケットに手が届かなかったり、シートベルトをし忘れたままアクセルを踏んで空ぶかししたり…まさに初心者。
でも、運転そのものはとっても上手なのです。
車が運転できていいなあ、とうらやむ気持ちが半分。
やっぱり私にはできないな、とあきらめる気持ちが四分の一。
残りは、ほんとうにそうなんだろうか、と自分を疑う気持ちです。
1年ほど前。
仮免許をとって、3週間くらい経った頃でしょうか。
私は、音や光への感覚過敏を理由に、自動車学校を辞めました。
脇をすり抜ける他車の轟音にアクセルを踏む足はすくむ。夜間は発光する町の看板と信号機の光の見分けがつかない。対向車のライトがまぶしくてずっと目を細めてしまい、歩行者や自転車を見落とす。
そもそも、同時に何か所も対象として注意を保つのが苦手な私です。
ハンドルを操作しながらアクセルを踏み、前後左右に気を配りながらウインカーを出すなんて芸当、いつ取り返しのつかないミスが起きてもおかしくないのです。
毎回、路上教習がこわくてこわくて、嫌で嫌で。教習所に向かう途中の駅で倒れ、救急車で運ばれたこともありました。
「免許さえ取ってしまえばいいんだから」
「車の免許がないと、就職でも子育てでもずっと困るよ」
何度教習所を辞めたいと言っても取り合ってくれなかった家族を、大学の障がい学生支援室の先生が電話で説得してくれたのでした。
そうして、もうすぐ1年が経ちます。
3歳下の妹が教習所に通いはじめた頃から再燃した、両親の「かっぱも、やっぱり運転できるんじゃない?」熱。
それが、新車がやってきた今、ピークに達しています。
もともと、支援室の先生や私のお医者さんに言われてしぶしぶ隠しただけで、その熱自体が消えたわけではないことは、わかっていました。
「ママはね、かっぱがまた教習所に通うなら、数十万くらいもう一回出してもいいと思ってるんだよ」
「妹子の車もそうだけど、最近の車は自動ブレーキシステムでぶつからないようになってたり、モニターで駐車しやすくなってるから…かっぱみたいに運転に苦手な人でもなんとかなると思うんだよ」
両親が、私にプレッシャーをかけないようにと十分配慮していることは伝わってきます。
それでも、ちょくちょく遠回しに、車の免許を取ることを勧められます。
「かっぱにも、やっぱり運転できるんじゃない?」
家族がそう思うのも無理はありません。
私は普段、困っているところを家族に見せないようにしているからです。
テレビの明るさを勝手に最低輝度にして怒られるか、スーパーに行くのを嫌がるぐらいしか、「かっぱは、うるさいもの/まぶしいものが苦手なんだ」と家族が実感する機会はありません。
実家でパニックを起こしたこともあるけれど、家族が目にしたのはひとり部屋で丸くなってぽろぽろ涙をこぼしている私の姿だけです。原因を知っているわけではありません。
私が「苦手なの」と言うだけでは、その深刻さや困り感は伝わらないのでしょうし、私はもしかしたら本気で伝えようとしていなかったのかもしれません。
「苦手なのかもしれないけど、がんばれば、できるんじゃない?」
言われ続けるうち、自分でもそんな気がしてくるんです。不思議なことに。
苦手は苦手だけど、大きくなったら食べれるようになったナスや大根みたいに、慣れで克服できるものなんじゃないか?
車校に通うめんどくささや教官に怒られるのが嫌なことを、過敏のせいにして逃げていただけなんじゃないか?
車校の入学金、数十万円を無駄にする前に、私、もっとがんばれたんじゃないか?
この先、いつまでも家族が私の足になってくれるわけじゃない。自宅から遠い学校が赴任先になったり、子どもが産まれて送り迎えが必要になったりする。
車を運転できないことは、必ず障壁になる。
そうわかっているから、ぐるぐる何度も考えてしまうのです。
――私にも、やっぱり運転できるんじゃない?もう一回挑戦すべきじゃない?
――いや、無理だ、あんなに怖い思いはもうしたくない。
――でも、慣れなんじゃない?がんばれるんじゃない?
――危ないよ、人に迷惑をかけるよ。
ぐるぐる、ぐるぐる。
誰かに「で、かっぱちゃんはもう免許とったの?」って言われるたび、妹の車に乗るたび、考えてしまいます。
わからないなあ。
どうしたらいいんだろう。