かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

11月14日 避難訓練から避難せよ!

大学の避難訓練

「訓練です、訓練です…」と放送の後、全教室の学生がわらわらと外へ歩きだす、大学の避難訓練がありました。

 

予めおよその時刻はわかっていましたが、突然の放送とその音量に驚きました。

そこからみんな避難のために立ち上がります。すると、一斉に重い机や椅子が動くので、ギイギイガゴガゴこれまたすごい音。

うるさい、うるさい、どうしよう、みんな動いてる、動かなきゃ、でも、なんでだっけ?ああうるさい。

耳栓をつけようと思うものの、しばらく固まってしまって動けませんでした。

 

やっとこさ廊下へ出ると、今度は建物の出口へと流れる人ごみ。

しかもそれぞれ喋りながらなので、なかなかの騒がしさです。

まるで大きな駅のど真ん中にいるようで、これまた固まってしまいました。

 

避難訓練から逃げるようにして校外へ出ると、それは家のある方向とは反対側の門でした。

人の波も落ち着いた道を歩きながら、「そういえば、小中高のときも避難訓練は嫌いだったなあ」と思い出しました。

高校までだと、静かに避難しなければ怒られるので移動中の騒がしさはなかったし、列になって歩くので「私いまどこにいたらいいんだっけ?」とパニックになりかけることもなかったんですけどね。

 

 

 

で、冷静に考えてみると。

訓練でさえ、避難時の非常放送や人の声の大きさ、人の流れにこれだけ頭のなかをかき回されてしまうということ。

これって、けっこうまずいですよね。

 

もし本当に地震や火事が起こったら、人はパニックになる(私とはちょっと違う意味で)

災害自体もけっこうな音がしたり揺れたりするかもしれないし、平静さを失った人々の声と動きの波は予測できないものになる。

そのとき私は、落ち着いてきちんと避難できるんでしょうか。

 

もう、顔見知りの同級生たちはクラスにいない。固まってしまった私の手を引いてくれるしーちゃんもウサちゃんもいない。

私は、ひとりでだいじょうぶなんでしょうか。

 

不安でたまらなくなりました。

そういうときには何か自分で対処法を考えて安心したりするんですけど、今回の場合は練習の方法がわかりません。

 

 

 

大学側にお願いしたいこと

実際に大学に要望を出すかということと、その希望が通るかということは別にして、「環境がこんなふうに変われば、私はもっと過ごしやすいな」という条件を考えてみることにしました。

 

①放送の最初の数秒は、音量を控えめにしてほしい。

もちろん、実際に放送があるときは非常時なわけで一刻も早く情報をみんなに伝えなければいけないということはわかります。

でも、突然大きな音が始まると、パニックに陥って動けなくなってしまう人もいます。

最初の2秒にクリック音があるだけでもかまいません。

「今から大きい音が鳴るよ!気を付けて!」という予告のようなものがあるだけでも、心と頭の準備ができて、少しは楽になります。時間があれば、イヤーマフを準備することもできます。

 

②非常時に動けなくなってしまう人もいること、そういうときは助けてほしいことを他の学生にも知らせてほしい。

本学には、車椅子を使っている学生や、補聴器を使っている学生がいます。

困り感の大きさだとか場面だとか別として、彼らは比較的、困っていたら「見えやすい」学生だと思います。普段から顔見知りでないであろう他の学生が手を貸しているのを見かけるし、非常時にもきっとこの大学の学生は同じように振舞うと思うからです。

 

でも、聴覚過敏やASDパニック障害などをもっていて、固まって動けなくなってしまうという学生もいるのです。

ある程度の知識をもっている人でなければ、それが「困っている」「動きたいけど、動けない」状態なのだとは気づけません。人混みのなかで、動じずにじっとしている人のように映るかもしれません。

そのまま見逃されて、逃げ遅れることがあっては大変です。

「そういう人もいる」「声をかけて、一緒に逃げたほうがいい」と知っている人が教室にひとりでもいてくれたら助かります。

ポスター?はちょっと大げさすぎなのかなあ。イヤーマフに貼っている聴覚過敏ステッカーのようにこちら側がアピールした方がいいのかなあ。具体的な方法はちょっと思い浮かばないのだけど。

 

 

こういうのって、支援室のインコ先生に言った方がいいんでしょうか…。

インコ先生の話だと、他にも聴覚過敏の学生はけっこういるらしいのです。その人たちが同じように困っているかはわからないけど。

私だけのために大教室のマイクの音量を下げてもらうことができないように、他の大多数の学生のために最善である現在の方法を変えてほしいなんて言うのはおこがましいんでしょうか。

わからないけど、言うだけ言ってみようというのが私の性格なのです。