12月11日 日本語学級にて
大学の授業で、とある小学校の日本語学級に見学に行きました。
外国に家族のルーツをもち日本に移住して来た子どもや、海外在住が長くて日本語に不慣れな子どもが通う、通級教室です。
見学後の質問コーナーのとき、日本語学級内における特別な支援の方法について質問をしました。
日本語学級の先生からの回答が終わったあと、大学から私たちを引率してくださった日本語教育の教授が私のほうを向いて、補足としてこんなことをおっしゃいました。
「特別なニーズをもつ子どもは、(通常学級と同じく)日本語学級にも5~6%いるけれど、オモテにはそれよりも多く見えると思います。
でも、それで『あの子には特別なニーズがある』って勘違いして、レッテルを貼って烙印を押したら、その子の明日を狭めることになります。気をつけてくださいね」
なんだろな。
なんとなく、納得いかないような気持ち。
なんでだろう。
もやもやするので、書きます。
先生のおっしゃっていることの意味はわかります。
日本語の力がまだ十分に育っていない子どものなかには、先生の話を聞かずにずっと手いたずらをしていたかと思えば、授業中なのにばっと教室から逃げ出す子もいるそうです。ともすれば、ADHD傾向の可能性があるように見えます。
今日のインタビュー活動でも、話しかけているこちら側や友達とほとんど目を合わせず、言語は理解できるはずなのに会話がうまく成立しない子どもがいました。私は、ASD傾向があるのかもな、とつい思ってしまいました。
こうした、上手に授業の活動に適応できない子どもたちの行動は、ほんとうに発達のでこぼこが関係しているのかもしれないし、そうではなくて、家庭環境や個人の性格がかかわっているのかもしれないし、はたまた、ことばに自信がないからこその逃避行動なのかもしれません。
この最後の「ことば/勉強に自信がないから」というのが、日本語学級ならではの理由なのだと思います。
先生がおっしゃろうとしていたのは、
「日本語教室には、ことばの問題で、実際には発達のでこぼこが理由でなくても、そう見えるような行動をとる子どももいるからね」
ということなのだろうと思います。
「特別なニーズをもつように見える」ということ
ほんとうに勘違いなんでしょうか?
発達のでこぼこが原因であるように見える、「上手に授業の活動に適応できない子どもたちの行動」。
授業に集中できず、ずっと一人で遊んだりしゃべったりしているあの子、四六時中自分のシャツの裾をしゃぶっている、だれとも目の合わないあの子、明らかに授業についていけていない子どもたち。
実際の原因が言語など別にあるのだとしても、その子たちが「授業にうまく参加できなくて困っている」=「他の子どもたちとは、少し違った支援・授業の工夫が必要」ということは確かなのではないでしょうか。そう見えるのなら。
かりに発達のでこぼこをもっていなかったとしても、特別なニーズをもっているといえるのではないでしょうか。
留学中にも習いました。
「特別なニーズをもつ(特別な教育的手だてを必要とする)」ということは、何も「発達のでこぼこがある」「障害がある」という意味ではありません。
「特別な教育的手だて」を必要とするほど、「学習における困難さ」があるならば、その子どもは、「特別な教育的ニーズ」を持つとする。
―1996年教育法
つまり、学習をするためには他の多くの子どもたちとは違った、特別な配慮・支援・授業の工夫が必要であることを「特別なニーズをもつ」と呼ぶのです。
その要因は障害に限らず、「家庭状況が厳しく、勉強に集中できない環境にある」とか、「まだ日本語が使えないので教科書が読めない」とか、「不登校の期間が長かったので勉強についていけない」とか、さまざまであってよいのです。
(https://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/kiyo32/A-32_05.pdf)
だから、
「特別なニーズをもつ子どもは、日本語学級にも5~6%いるけれど、オモテにはそれよりも多く見えると思います。でも、それで『あの子には特別なニーズがある』って勘違い」
というのは、勘違いでなくて、実際に特別なニーズのある子どもが一般の学級よりも多いのではないかな、と思います。
勘違いだったとして
もし、「この子、どうやら発達障害がありそう」と教師が個人的に思っていてそれが勘違いだったとして…それって、そんなにまずいことなんでしょうか?
私はそうは思えないのです。
ちなみに、前述したとおり、おそらく先生は「特別なニーズがある」というフレーズを「発達障害や何らかの障害がある」という意味で使っているので、ここではその意味で使うとします。
例えば。
いつも一方的に喋るばかりで話のかみ合わない、ノリスケくんがいたとします。ノリスケくんは、授業中も手を挙げずに勝手に発言します。給食では食べられないものが多く、残してばかりです。
教師のフネさんは、
「コミュニケーションの苦手さや偏食(感覚過敏)が強いから、もしかしてノリスケくんには、自閉症スペクトラムの傾向があるのではないかしら」
と考えました。
そこで、授業中、黒板に「聞く場面」「手を挙げて話す場面」など今すべきことが視覚的にわかるカードを貼ることにしました。給食の時間は、苦手な食べ物はお箸で細かくしてから食べるようにアドバイスをしたり、各おかずは一口だけがんばったら残してもいいというルールにしました。
そして、ノリスケくんの保護者に「一度病院で検査を受けてもいいかもしれない」と伝えました。
さて、AQテストの結果、ノリスケくんが自閉症スペクトラムである可能性は低いことがわかりました。
コミュニケーションが苦手なのは、幼い頃から一人遊びが好きな性格だったり、保育園や幼稚園に通っていなかったことによる経験の不足、強い偏食は、家庭でいつも好きな食べ物だけが夕食に出されることによるものでした。
こうして、ノリスケくんが困っている原因は、発達のでこぼこではないことがわかりました。
それでも、フネさんは、ノリスケくんが授業中の話す場面を理解しやすくなったり、少しでも多くの食べものを食べられるようになったりするよう、支援を続けていくことにしました。
教師は医師ではありません。保護者に「あなたのお子さんは自閉症スペクトラムですね」なんて言ってはいけないことになっているし、ましてや子どもに薬を出すこともありません。
教師にできるのは、困っている児童への支援や、保護者への情報共有だけです。
それは実際に発達のでこぼこがあってもなくても、しておいて損はないことだと思うのです。その子がある場面で困っているのは事実なのだから、その要因がなんであれ、何らかの支援をするのは当然のことだと思います。
まぁ、保護者は、「うちの子が発達障害があるなんて言って!違ったじゃない!余計な心配させて!」って激怒してしまうかもしれませんが…
教師が多少勇み足になって、勘違いをしてしまうことは十分ありうるし、やっぱりそこまで不都合のあることだとは思えません。
「特別なニーズがある」というレッテル?
もうひとつ、私が引っかかったところ。
「『あの子には特別なニーズがある』って勘違いして、レッテルを貼って烙印を押したら、その子の明日を狭めることになります」
「レッテルを貼る」「烙印を押す」って、いつも悪いことばに使いませんか?「遅刻魔のレッテルを貼る」とか「失格の烙印を押す」とか。
「特別なニーズがある」って、そんなに悪いことなんでしょうか。
「学習するためには、多くの人とはちょっと違う、工夫が必要」
それだけのことだと思うのです。
別に、「他の人より劣る」とか「できないことばかり」とか「かわいそう」とか、そういうわけじゃないのに。
そりゃね、まだまだ世の中のイメージとしては、そういう一面もあるかもしれません。それに、「私、特別なニーズがあるんです」って言いづらい人もたくさんいると思います。
だけど、やっぱり、私はレッテルではないと思う。烙印でもないと思う。
少なくとも、教師側はそんな言い方しちゃいけないんじゃないかと思います。
まあね、でも、「勘違いしたら、それはレッテルになる。思いこんじゃいけないよ」っていう意味なのかもしれませんしね。
言葉はむずかしい、よーわからん!