3月9日 ふつうの先生
一昨年から毎学期、授業の担当の先生それぞれに提出している、配慮願い。
来月から始まる次の学期、提出しないことにしようかと迷っています。
障害学生支援室の先生には、目を剥かれそうだけど。
理由は、就職してからも、同じように配慮してもらえるとは思えないから。
いったん教師として働きはじめたら、自分に都合の良い環境に調整してもらうことなんてできそうにないから。
慣れとかなきゃ、って思いました。
そもそも大学2年までは、大学や周りからの配慮なんてない状態で生きてきたわけなので、その世界に戻るだけなんです。
だから、なんとかできてあたりまえなはず。
特性を隠す理由
似たようなおためしは、実はもう既にやっています。
去年の秋から週1で始めた学校ボランティア。
現職の先生方や支援員さんたちに混じって、小学校の特別支援学級の子どもたちについて、授業を受けたり校外学習に行ったりしています。
そのボランティア先には、聴覚過敏のことも、発達障害のことも、言っていません。
掃除のときの机移動の音がしんどかったり、動物園へ引率するまでの電車でイヤーマフをしたいのを我慢したり。
そういうことはあったけれど、ほとんど問題なく過ごしています。
ほんとうは、特性のことを黙って働かせてもらうのは良くないことなんだろうなと思います。
パニックなんて起こしたら、ただでさえ子どもたちのことでいっぱいいっぱいな先生方の手をさらに煩わせてしまうことになるし、そもそも一度それでバイト先の塾長から厳しめに言われたこともあるし。
それでも、知りたかったんです。
なんのも配慮もない、「ふつうの先生」として、私はやっていけるのか。
そもそも「ふつうの先生」を目指す必要はあるのか
ある意味では、私は「ちょっとだけ変わった先生」を目指すつもりでいます。
子どもたちの年齢や発達の状況にもよるけれど、私の発達障害のことを子どもたちに隠さないでいたいなと思います。
「こういう人もいるんだよ、いろんな人がいるんだよ」って。
私だからこそ、教えられることがあると思うんです。
だけど、それはあくまで、
「先生ね、チーズアレルギーだから、給食のチーズは食べられないんだよ」
みたいなものではないでしょうか。
なんて説明したらいいかな、それは「ちょっと苦手があるだけの、ふつうの先生」。
そこは、私もなれるかもしれません。
でも、私の言いたい「ふつうの先生」って、そういうことじゃないんです。
朝の集会で、音楽クラブの演奏に合わせて全校で大合唱。私も先生として、積極的に声を出す。
午前中は地域の商店街への校外学習。都会の大通りをとおるので、子どもたちに万が一のことがないよう細心の注意を払いながら、クラスを率いる。
今日は雨なので、休み時間は教室のなかで過ごす。わいわい騒がしい子どもたちを眺めながら、一人ひとりの表情に気を配る。
掃除の時間。子どもたちと一緒になって机や椅子を運ぶ。
そういう、教師としてあたりまえのことが、あたりまえにできる先生が、「ふつうの先生」。
実際に小学校の担任をもったら、
「じゃ、うるさいから先生出てるわー」なんて、掃除や昼休みのたびにぷらっと教室を空けることなんてできない。
校外学習の引率でイヤーマフをしていたら、子どもたちに自動車が迫っても気が付けない。
職員室で何らかの配慮をもらうことはできても、子どもたちとの毎日を自分に過ごしやすいような環境に整えてもらうことは難しいと思うのです。
「ふつうの先生」になる必要性はなくても、ならざるをえないんじゃないかなと思っています。
まだちゃんと働いたことないのに何言ってるのかってかんじだけど。
だから今、慣れておきたい
大学の私の指導教諭の教授は、
「聴覚過敏で先生している人もけっこういるのよ。
配慮してもらっている例はすごく少ないだろうけど、だからこそ、かっぱさんが先駆者として道を切り開いていくことが必要なのかもしれないじゃない」
とおっしゃっていました。
そのとおりなのかもな、とは思います。
だけど、だけど、もしそれに成功しなかったら?
多忙な小学校教諭として、「ふつうの先生」として、がまんしていくしかなかったら?
そう思うと、今のうちから、準備しておくしかないんじゃないかなって。
「ふつうの先生」を目指す、「ふつうの大学生」に擬態して毎日生きていく術を身につけておくべきなんじゃないかなって思うんです。
「それで無理をして、また体やこころをこわしてしまったら、元も子もないよ」って、しーちゃんなら言うでしょうか。
それでも今から試さずにはいられないのは、たぶん不安のうらがえし。
私、ちゃんと先生の仕事できるのかなあ。
おしまい
おまけ
私と同じように、英語教育を専攻する傍ら特別支援教育の先生を目指している、同級生の友達がいます。
その子は、車いすに乗っていて、だんだん体が動かなくなっていく進行性の病気を抱えています。
その子にはいろいろ本音を話せるけれど、「ふつうの先生になりたい」とだけは、口が裂けても言えない。わからないな、言っちゃったほうが、きちんとその子の意見を聞けるのかもしれないけど。
私と同じように、その子も教壇に立つ日を夢見ています。
すごくいい先生になるだろうな。まちがいない。
私がそう言うたび、その子は「かっぱちゃんもだよ」と笑ってくれます。
聴覚過敏という、うるさい小学校に勤務するには不向きな特性をもっていてなお、小学校の先生になろうとすること。
その選択に誇りをもたせてくれる。
なにが言いたいんだっけな。
私はまだ自分に、「あたりまえのことがあたりまえにできること」を求めてしまうんです。
それが、しあわせなことだって、いまだに心のどこかで思ってしまっている。
まだまだだなあ、って思います。
もっと勉強しないといけないし、もっと人と話さないといけないし、もっと考えないといけない。
「ふつうの先生」じゃなくて、「いい先生」になるために。