当事者として、教師としての役目を考える
とっても前に、このブログの記事をFacebookでシェアしたところ、友人から
先生としてどうするか、ということは自分はわからないけど
普通とは何か、について揺れる当事者として、かっぱちゃんだからこそ言えることがあるんやないかなと思った。
と、コメントをもらいました。
当事者として言えること。
私だから言えること。
親が自分の特性を認めてくれないことを、自分の中で認める方法、とか?
嫌なときに「嫌だ」と声を張り上げても良い場合の3か条(かっぱの例)、とか?
そりゃ、いっぱいあるだろうけれど。
でも、子どもたちにどれを伝えるべきなんだろう? どう伝えるべきなんだろう? とふわふわ考えて1週間。
答えが見つかりそうになったり、「いーやそもそも、それって私から言う必要あること? わざわざ教えられるよりも、子どもが自分で気づいていったほうが良いものなのかな?」と思ってみたり。
迷走しております。その過程も書いておけばよかったな。
そうこうしている間に、また別の考えるヒントがやって来ました。
きっかけは、とあるブログ記事。
困りごとの当事者たちが『もっと助けてよ!』と声を荒げるのには少し違和感があるな、という内容の一文がありました。(通知いっちゃうから引用しないけど)
それは、けして嫌な意味ではなくて。
「周りが『そう言われてもそれを我々が手助けする義務はないじゃん』となってしまうからお互いに敬意が必要だよね、だからこそ当事者たちが生きやすい環境を周りの人間が作ることは絶対に必要だよね」という話の流れです。
もちろん、その考え自体にはとっても同意です。
でも、なんだかモヤモヤが収まらなくて、毎回ひとりで書いている感想メモを、Twitterでご本人に送りつけました。勝手に。
(いろんな意見ウェルカム!と毎回おっしゃってる方だったから、送るだけなら良いかなって……私が筆者の意図をちゃんと理解してないことが原因だったらすごく申し訳ないけど。でもそのときは「誤解だよ」ってちゃんと教えてくれるかなって思ったんです……すみません)
改めて読み直すとわかりづらいなぁ、無駄に長いなぁ。
まあ、それはそれとして、ポイントなのはここから。
この冗長な感想文を受け取った筆者の方は、優しい言葉で返信をくれました。
貴重な貴重な声をありがとう。
その声を少しでも大きくできる「拡声器」になるのが僕の役目だね。
役目。
なんとなく、しっくりきました。
当事者としての役目、教師としての役目。
それぞれがあるなかで、私にできること、私がやりたいことはなんだろう?
当事者としての方は、今までもやってきてるとおりだし、まぁ追々まとめていくとして、教師の方。
いろいろある中で、私がいちばん大切にしたいのは、伝える手段を獲得させることかもな、と思いました。
自分の痛みや苦しさに気づける力とか、困ったときに「ちょっと助けてほしいです」って言える力(援助要請スキルとか呼ばれてるやつですね)も、もちろん大切。
でもそれらのためには、「いたい」とか「これがいやだった」とか、誰かに伝えないといけない。
形に出さないと、自分自身の困りごとはもやもやで終わってしまいます。誰かから手伝ってもらって良い方向へもっていくにも、向こうから気づいてもらうまでひとりで抱えるしかなくなってしまいます。(ちなみに、小学校などの外国人児童向けの国際教室でも最初にこれらの言葉を教えるそうなので、生きていくために必要な最初の力なんだと思います。)
伝える手段、といってもさまざま。
言葉がいちばん私の得意分野だけど、そうじゃなくてもいいんです。絵カードを指すとか、自分で何か描くとか。
じゃあその伝える手段をどう育てるか?
「伝えてもいいんだ、伝えても大丈夫だ」という、周りに対する信頼のようなものを培うには何が必要か?
そのへんもまた、勉強していかないと。
背負いすぎない程度でいいとは思うのだけど、自分の役目が何かを意識して動ければ、周りとは少し違う角度から私なりにできることが見えてくるわけで。
そうすれば、より色んな種類のかかわり方で多角的に子どもを育てられたり、子どもに「こんな大人がいるよ、こんな生き方もあるよ」と見せられるバリエーションが増えるわけで。
私の役目を考えることは、私がどんな人間か、何を吸収して生きてきたかを見つめなおすところから始まるんだろうな。
……と、書いてて、なんか響きが綺麗ごとすぎてゾワゾワするので、もうおしまい。