かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

かってに大きくなるからだ②

紙に残せないかきなぐり。
 
学校で会うこどもは、みんな可愛い。
 
素直な子から敵意しか向けてこない子、ちまちま動く一年生から声の低くなった六年生、アイドルのような顔立ちの整った子そうじゃない子、みんな。
 
本気でそう思っていたのだけど、このところ自分の中で例外ができてしまったようで、とても苦しい。
 
 
その子も、可愛い。
可愛かった。
つい最近まで。
 
私が朝学校に行くたび、「うどんりんごせんせいがきたよ!」と大きな声でみんなに知らせて、「せんせいおはよう」と抱きつきにきてくれる男の子。
 
けれど、高学年に上がり、身体の成長で性に目覚めたけれど精神発達がそれに追いつかなくなってきた。
女子児童や私に対して、無遠慮に身体を触ったり、「おなかみせてー!」などと発言するようになった。
 
当然、職員みんなで対処にあたる。
社会的ルールとして、言葉や絵など、様々な手段を使って教えるけれど、なかなか効果が出ない。
発達上、まだ善悪の判断も難しい子なのだ。 「なぜだめなのか」を疑問に思うずっと前の、「やったらダメ」がわからない段階。
 
今日も、「うどんりんごせんせい、おはよう!」と抱きつきに来てくれたその子をやんわり押し留めて、「おはよう。腕はオッケー、おなかはバツだったね」と語りかけながら。 そして、昼休み、どこで覚えたのか「ちゅっちゅしたい!」と繰り返しながら女子児童に付きまとうその子を別室へ連れて行きながら。
 
いつも自分の胸の溢れ出ていた、「この子たちが可愛い。大事だ。ちゃんと教えていかなくちゃ」という愛情のような、義務感のような感情がシュウっとしぼんでいくのを感じた。
 
もちろんそれで、するべき指導や、対応に差が出るわけではない……と、信じているけど。少なくとも、私は出していないつもりだけど。
 
でも、自分の中で一瞬でも、 「この子は教えるべき子なのに、近寄りたくない」 と思ってしまったことが何よりショックだった。
大人になっていく彼の成長を喜べなかった。
 
 
 
帰り道。 用事で、大きな駅を通った。
 
壁際に座り込んで、金銭を請う段ボールプレートを出している男性。 ぼろぼろの衣服、異臭を漂わせながら横たわっている何人か。
 
一説には、そのようなホームレスの7割近くが知的な障害を抱えた人々だと本で読んだ気がする。刑務所、拘置所の中にもそうしたハンデをもつ人が多すぎる、日本の社会は彼らを置き去りにしている、と。 出会った子どもたちの一人たりとも(そして本来は世の中の誰にも)そんな思いはしてほしくない。
 
でも、正直、 「今のままでは、あの子とあの子は、親亡き後はああなりかねない」 と思ってしまった。そんな未来は絶対に嫌だけど。
 
私にできることはあまりに少ない。 学級の先生方にもそうだし、私が正規の教員になった後も、彼らに教えられること、かかわれる範囲は限られている。
その中で、何ができる?何を優先すべき?あの子に何を残せる?
 
「そういうの考えてるとね、寝れなくなるよ、ほどほどに趣味に逃げなね」 と、担当の先生から前に言われたっけ。
 
今のところはまだ、考え事よりも子どもたちとサッカーした身体的な疲労が勝つので、よく眠れそうだけど。
 
ほんとの先生になったら、そういうわけにもいかないんだろな。