かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

この町で運転ができないということ

地元での暮らしも、半年が経ちました。

ここは、とってもいい町です。

でも車の免許が取れない私にとっては、やっぱり住みにくい

どうしても、東京にいたときとは別の息苦しさを感じることがあります。

 


覚悟はしてたのです。もちろん。

 

車で30分とかからない、隔週の初任者研修場。電車+バスでは、所要時間が片道3倍以上になります。

お高めのプリンを買うスーパーにも、ネットで気になった遠くのカフェにも、車に乗らないと行けない。

そういう、日々のちょっとした不便さは想定内。

 

けれど、それ以上に困るのは、毎回誰かに「乗せてって」とお願いしないと動けないことへの、情けなさや後ろめたさのような黒っぽい気持ちが溜まること。

 

 

東京にいた頃、車の免許をもっていない、またはとる予定がない友人は珍しくありませんでした。

理由は単純。都心での暮らしに、車の運転はさして必要ないからです。

買い物にも遊ぶのにも、バスや電車の交通網でたどり着けます。むしろ自動車では、どこか行くたびに駐車スペースを探すのが大変だし、普段家の近くに停めておくだけでも安くはない駐車場代がかかって不便です。

 

だから、誰かに

「車の免許? もってないし、とらないかなー」

と答えても、「へーえ、そうなんだ」で終わりました。

 

車社会の地元では、そうもいきません。

 

「おっ、雨の日も自転車通勤!がんばるねぇ、なんでまた?」

と目を丸くする先輩教員に

「私免許もってなくて~」

と曖昧な笑顔を返すと、たいがいは

「そうなの!? 夏休みとかに早く取っちゃいなよ!これから大変だよ!」

などとアドバイスがやってきます。

 

 

 

仕方がないとは分かっています。

私の音や光への過敏性では、車の運転が難しい。親より誰より、私自身が知っています。

自分で、できない。だから、他の人の助けを借りる。

ただそれだけのこと。当然のこと。

体の特性や他の事情で車の運転ができない人は何百万人といるし、身体の移動にもっと制限がある人たちもいる。私は大声で嘆くほどの困り感じゃないんだきっと。この納得の仕方が正しいかはわかんないけどさあ。

 

普段はそうやって、それなりに受け入れて過ごしています。

「まっ、しょんない! これぐらいの不便はしょーがない!」

マスクの中で小さく声に出すと、妙に開き直って、ちょっとだけ元気になります。

 

ただ困ったことに、それで上手くやりすごせないときもあるのです。

ちょっとした不便さ、そのたびのちょっとした気持ちの曇りは、いつの間にか積もり積もっていて。

見ないふりができないタイミングで、急に重さをもって圧しかかってきます。

 

 

私は、いつも誰かの時間と、手間と、「いいよ」の気持ちの余裕をもらわないといけない。

妹、父親、恋人、友達。
誰かの善意に心から感謝しながら、申し訳なく思いながら。

今日彼と口論したら、明日快く買い物連れてってもらえないかも?なんて一瞬考えながら。そんなことないだろうから、むしろ辛い。

 

いっそ、報酬を渡せるなら良かった。
ガソリン代200円、運転ありがと代500円、合計700円。距離に応じて変動。

 

実際は、私の周りの人たちはみんな優しいから、受け取ってくれない。私も逆の立場だったらそうだろうし。

じゃあ、じゃあ、私はこの先もずっと、もらいっぱなしだ。気持ち、言葉、そういう当てにならないものでしか返せない。

 

みんな本当に優しい。あんまり優しいから、私はどうしていいかわからない。

「えーめんどー、今日は自分でなんとかしてくれない?」なんて言う人がいない。それも嫌だ。絶対に、居間から動きたくない気分のときもあるはずなのに。

 

あ。私がこの町に居る限り、これ続くんだ。

生活するには、ずっと他の誰かに寄りかかって、人の良心を頼っていかないといけないんだ。そっか。

それならやっぱり、東京に戻りたい。
電車はぎゅうぎゅうで、水はまずくて、お店も駅もうるさくてぐったりするけど、それでもここよりましだ。

あの町では、私はもっと好きなように動けた。駅の騒音はしんどいけど、大概の場所はひとりで行ける。気まぐれに「予定変更!おうちかーえろ!」で帰れる。

他の人の都合も気分も何一つ関係なしに、自分の思いのままに動ける。

善意なんてもらわなくても、自分の力で生活できる。

 

 

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「このお勉強?
 これはねぇ、みんなが自分の力で生きられるように練習するお勉強だよ。
 
 だいじょうぶ。自分の力で生きるっていうのは、自分ひとりで何でもしなくちゃいけないわけじゃないんだよ。
 〇〇ちゃんが困ったときは他の人に手伝ってもらったり、苦手なことは得意な人にお願いするの。
 先生もそうだし、大人もこどもも、みーんなそうやって生きてるからね。

 だからね、〇〇ちゃんが自分で『こまったよー、手伝ってほしいよ』って言えるように、今練習してるんだよ。
 周りの人に上手に頼ることも、自分の力で生きてるってことなんだよ」


こどもにそう語りかける私は、100%の本気です。
学校の中だけしか通用しない綺麗事教えているつもりなんてありません。本当にそう思うから、そう伝えてるだけ。

なのに、自分のこととなると、なかなか同じようには思えない。
本音と建て前ってやつですか、理想と現実ってやつですか。
私は、私は、自分が信じていないことを子どもに教えているのか?

 


……なーんて、おなかが空いているときは、文章はすいすい進むけど思考はずんずん沈んでいくものですね。


プッチンプリンたーべよ!