かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

2月1日 知的障害と外国語教育

今日もまとまりがありません。

最近もやもや考えていることメモ。

 

 

私と同じように、英語教育と特別支援教育を勉強している学生と出会いました。

同い年で、他大学の方。

「知的障害がある子どもにも、外国語教育を受けさせるべきだよね!」

と彼は熱弁してくれて、話は盛り上がりました。

「だって、知的障害があるからって、国際理解教育や英語教育が省かれていいわけがない。生きていくうえで必要だし、教えるべきだよ!」

と。

私もそう思ってきたし、なんなら来年度書く卒論のテーマは「知的障害の特別支援学級における外国語教育の実践」とかにしようかな、とも考えています。

 

でも、毎週学校ボランティアとして知的障害の特別支援学級に入っていると、「ほんとうに必要なのかな?」と思えてしまうときがあります。

実際にその学級には英語の授業があって、何度か一緒に参加しました。

”Green!” 
”Red, please!”

楽しそうにカラフルなシールを集めるこどもたちを見ながら、もわもわ思ってしまう。

「こんなの、英語教育って呼んでいいの?」

「この子たちに、この教育は必要なの?」

 

英語教育を専攻している身として、小学校段階における外国語教育の必要性や意味は、繰り返し学んでいます。

文部科学省の使う言葉でいうなら、「グローバル化社会の中で求められる国際コミュニケーション能力」とか、「国語力との調和」とか。

そのほかの本など見るフレーズなら、「国際理解教育としての外国語教育」とか、「言語に対する意識の高まり」とか。

英語教育の意義をテストで答えるだけじゃなくて、「ほんとうにそのとおりだな、必要だな」って思います。

 

だけど、実践をすればするほど、「ほんとうにこんなこと、小学校でやる意味あるのかな?」って思ってしまうのです。特別支援学級に限らず、通常学級でも。

中高からの英語教育の基礎とするために、正しい音のインプットも大事、国際理解の視点を育てていくことも大事、ほんとうにそのとおり。

でも、教えることが多すぎて、やることが積まれすぎて、いっぱいいっぱいの先生方を見ていると、「そこまでして教えて、子どもたちに一体何が残るの?」って思ってしまうんです。

ろくに英語教育を学んでいない「素人」教師に、何ができるの?

これだけ英語教育を学んだ私たちにしても同じ。週に1回45分の授業のなかで、入れられるインプットはどれくらい?子どもたちの考え方に影響するのはどれくらい?

たしかに、やらないよりは、やる方がいいのです。やる意義もこれだけあるんですから。

でも、「必要」とまでは言えるんでしょうか……。

そう思えてしまうのは、私がまだ十分に学習していないからなのかもしれません。

 

というようなことを、知的障害の特別支援学級ではなおさら思います。

実際、学習指導要領では、知的障害の場合、外国語教育を学習課程に「加えてもよい」とされています。つまり、やらなくても良い。

 

じゃあ、やらなくてもいいんじゃない?

と、授業を見ながら毎回思ってしまいます。

一桁の引き算も怪しい3年生。

ひとりで着替えられない4年生。

彼らに必要なのは、さらなる英語教育なのかなあ。

もっと他のことを学ぶための時間と人手がいるんじゃないのかなあ。

 

 

一方で、「輝ける場」を作るための英語の授業という見方には賛成です。

国語も、算数も、にがて。「できないの」ってシュンとちぢこまっている。

でも、英語の授業のときは活き活きとして、積極的に発言するこどもたちを何人か見てきました。

家庭教師をしていた子も、「学校の勉強ね、英語と音楽だけは好き」と言っていました。

そういう側面も、たしかにある。

でもそれって、英語の授業でなくてもいいわけだし。

そもそも、キャッキャウフフするゲームだけの英語の授業を、私は英語の授業と呼びたくない。英語選修の学生として。

 

 

 

うーん。

たぶんね、こうしてもじゃもじゃ考えているだけでは大した意味はなくて、その時間で1冊でも多くの本を読んで、ひとりでも多くの人の話を聞くべきなんです。

本を読めば「そんなの、実態に即してないじゃん」と感じてしまうし、人と話せば「それは私が大学で習ったことと違う!」って思ってしまうけど。

 

それでも、学生の私が今するべきなのは、それこそ「インプット」。

浴びるように、知識と経験を積まないと。

 

卒業まであと1年しか、残っていません。

なんとか自分なりの答えを見つけないと、私、教師として働けません。