2月23日 退行とサカウラミの話
昼間の家のなかにいるのに、通り過ぎる飛行機の音にびっくりして、作業が止まること。
寝起きのときや夜は、お風呂を溜める音や、トイレを流す音が怖くて、大急ぎで布団にもぐりこむこと。
汚いわけではないのに気持ち悪くて、水道のレバーなど台所のあちこちに触れない、見たくない場所があること。
いつもというわけではないけれど、調子が良くないときに起こる、そういう小さな自分の動き。いわゆる感覚過敏、それによる回避行動だの云々。
気づくたび、いやな気もちになります。
困る場面や逃げる場面が、これまでもあることはあったのだとは知っています。
今までは気づかなかったり、普通だと思ってただけなんです。
昨年秋から、いちいちそれに気づくようになりました。
「それは、困っているってことなんだよ」ってタケノコ先生やしーちゃんに教えてもらうようになって、自分の困り感というものに目を向けるようになって、気づくようになってしまった。見えないでいたのに、見えるようになってしまった。
困っている自分、逃げている自分に気づくたび、いやな気もち。
すごくすごく、いやな気もち。
怖い恥ずかしい悲しい情けない不安、なんて呼ばれるのかはわからない、すごくいやな気もちです。
自分がどんどん退化しているような気がするんです。
退化までいかなくても、幼児化とでも言いましょうか。
小さい子どもに戻っていく。周りの世界は、どんどん怖いものだらけ、困ることだらけ。安心できるおとなのひとが近くにいないと、できないことだらけ。
もうひとりで電車なんか乗りたくないし、大きい駅にも近づきたくない。上の部屋から聞こえる水音に怯えて眠る夜は、「だいじょうぶだよ」って背中をぽんぽんしてもらいたいとさえ思う。
そのくせ、そうして安心を求める相手は、家族じゃなくて。
むしろ母にも父にも、相変わらずの「しっかり者の長女、大学三年生」でいてしまうのです。
隣で寝ている母に一言「しんどい」って言えばいいだけなのかもなと思います。親に、弱みを見せること、辛いと伝えること。
だけど、それは、いちばん難しくて。
きっと限界まできても、できないことなのです。
中途半端に子どもっぽくなるわりに、中途半端にプライドが残るから、けっきょく逃げ場を自分でなくしているんだろうと思います。
それで、ときどき、サカウラミしそうになる。
ほんのちょっとだけ。たまにだけど。
電車に乗っていられなくなって、途中下車してカフェラテを買ったとき。布団でダンゴムシしてるときとか。
一瞬だけ、八つ当たりのような黒っぽい感情が鎌首をもたげます。
支援室に行かなければ。
しーちゃんに何も言われなければ、よかった。
そうしたら私は何も気づかず、困ってても「まあみんな我慢してるし」ってあきらめながら、のうのうと毎日を過ごしてられたんじゃないか。
ホケカンの薬も、発達検査もいらない。困っててもしんどくても、そのままでいい。「そういうもんだ」って普通に生きていくから。何も支援も治療もいらない。
ほんの、一瞬だけ。
自分をたすけてくれている人たちを、恨みたくなることがあります。
すごくすごく感謝しているのです。ほんとうです。
タケノコ先生や、しーちゃんたちのおかげで、自分が困っていることに気づいて、これから長く生きていくなかでその特性と付き合っていく方法、家族と上手くやっていく方法を探していけるようになったんです。
自分が困っているときに駆け込める場所も、自分の苦手をさらしても助けてくれる友達も、タケノコ先生やしーちゃんが作ってくれたんです。
とくに1年生の頃からずっと私のことを気にかけて、そうっと支えて続けてくれて、支援室やホケカンに連れていってくれたしーちゃん。には、ありがとうを言っても、言い切れません。恩返ししたくていろいろやってるけど、ぜんぜん足りない。
ありがとうって、ほんとうに思っています。
自分に言い聞かせているわけじゃなく、ほんとのほんとに思っているのに。
どうしてときどき、サカウラミしたくなるのでしょう。
じわじわ退化していくような自分も、恩知らずな自分も。
考えれば気分が悪くなるほど好きじゃないのだけれど、どうしたらいいのかわからないのです。