かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

2月23日 退行とサカウラミの話

昼間の家のなかにいるのに、通り過ぎる飛行機の音にびっくりして、作業が止まること。

寝起きのときや夜は、お風呂を溜める音や、トイレを流す音が怖くて、大急ぎで布団にもぐりこむこと。

汚いわけではないのに気持ち悪くて、水道のレバーなど台所のあちこちに触れない、見たくない場所があること。

いつもというわけではないけれど、調子が良くないときに起こる、そういう小さな自分の動き。いわゆる感覚過敏、それによる回避行動だの云々。

気づくたび、いやな気もちになります。

2月22日 講義棟前からの脱走② 

 

困る場面や逃げる場面が、これまでもあることはあったのだとは知っています。

今までは気づかなかったり、普通だと思ってただけなんです。

 

昨年秋から、いちいちそれに気づくようになりました。

「それは、困っているってことなんだよ」ってタケノコ先生やしーちゃんに教えてもらうようになって、自分の困り感というものに目を向けるようになって、気づくようになってしまった。見えないでいたのに、見えるようになってしまった。

 

 

困っている自分、逃げている自分に気づくたび、いやな気もち。

すごくすごく、いやな気もち。

怖い恥ずかしい悲しい情けない不安、なんて呼ばれるのかはわからない、すごくいやな気もちです。

 

自分がどんどん退化しているような気がするんです。

退化までいかなくても、幼児化とでも言いましょうか。

小さい子どもに戻っていく。周りの世界は、どんどん怖いものだらけ、困ることだらけ。安心できるおとなのひとが近くにいないと、できないことだらけ。

もうひとりで電車なんか乗りたくないし、大きい駅にも近づきたくない。上の部屋から聞こえる水音に怯えて眠る夜は、「だいじょうぶだよ」って背中をぽんぽんしてもらいたいとさえ思う。

 

そのくせ、そうして安心を求める相手は、家族じゃなくて。

むしろ母にも父にも、相変わらずの「しっかり者の長女、大学三年生」でいてしまうのです。

隣で寝ている母に一言「しんどい」って言えばいいだけなのかもなと思います。親に、弱みを見せること、辛いと伝えること。

だけど、それは、いちばん難しくて。

きっと限界まできても、できないことなのです。

 

中途半端に子どもっぽくなるわりに、中途半端にプライドが残るから、けっきょく逃げ場を自分でなくしているんだろうと思います。

 

 

それで、ときどき、サカウラミしそうになる。

ほんのちょっとだけ。たまにだけど。

電車に乗っていられなくなって、途中下車してカフェラテを買ったとき。布団でダンゴムシしてるときとか。

一瞬だけ、八つ当たりのような黒っぽい感情が鎌首をもたげます。

 

支援室に行かなければ。

しーちゃんに何も言われなければ、よかった。

そうしたら私は何も気づかず、困ってても「まあみんな我慢してるし」ってあきらめながら、のうのうと毎日を過ごしてられたんじゃないか。

ホケカンの薬も、発達検査もいらない。困っててもしんどくても、そのままでいい。「そういうもんだ」って普通に生きていくから。何も支援も治療もいらない。

 

ほんの、一瞬だけ。

自分をたすけてくれている人たちを、恨みたくなることがあります。

 

 

すごくすごく感謝しているのです。ほんとうです。

タケノコ先生や、しーちゃんたちのおかげで、自分が困っていることに気づいて、これから長く生きていくなかでその特性と付き合っていく方法、家族と上手くやっていく方法を探していけるようになったんです。

自分が困っているときに駆け込める場所も、自分の苦手をさらしても助けてくれる友達も、タケノコ先生やしーちゃんが作ってくれたんです。

とくに1年生の頃からずっと私のことを気にかけて、そうっと支えて続けてくれて、支援室やホケカンに連れていってくれたしーちゃん。には、ありがとうを言っても、言い切れません。恩返ししたくていろいろやってるけど、ぜんぜん足りない。

 

ありがとうって、ほんとうに思っています。

自分に言い聞かせているわけじゃなく、ほんとのほんとに思っているのに。

 

どうしてときどき、サカウラミしたくなるのでしょう。

 

じわじわ退化していくような自分も、恩知らずな自分も。

考えれば気分が悪くなるほど好きじゃないのだけれど、どうしたらいいのかわからないのです。