12月29日 気づけない子のとなりで<発達障害といじめ>
前回は、発達障害をもつ子どもがどうしていじめの加害者や被害者になりやすいのかを自分の経験をもとに考えてみました。
今回は、では具体的にどうすれば本人や周りの子たちのいじめを防ぎ、早期発見できるのか。いろんなことに気づきにくい子がいたとき、学校の先生として私だったら何ができるのか、自分なりに考えてみます。長いです。
の前に、前回書いたことに対しての訂正というか補足。
気づきにくさ、特性からじゃないかも
ADHDの診断とASDの傾向をもつ私の場合の、「こんなことに気づきにくい」という例を書き出してみます。
<人をいじめているということ>
- 人の表情や場の雰囲気を読み取るのが苦手
→「相手が嫌がっている、悲しんでいる」ということに気づきにくい
(「やめて」などと明示的に言われればすぐやめる)- 「常識」を学ぶのが苦手
→善悪の判断の発達が遅れがち
→「悪いこと」と思わずにやってしまう
この、「相手が嫌がっている、悲しんでいる」ということに気づきにくいというものについて。
仲間外れ、からかいなど、冷静に考えれば相手が傷つくことくらいわかりそうに思うのだが、子どもたちは、安易に行動をエスカレートさせる。もちろん彼らは、被害者の気持ちに共感することはない。相手の気持ちを考えないからこそ、どんないじめも正当化される。
つまり、いじめ加害者の最も顕著な特徴は、「共感性のなさに基づくシンキング・エラー」なのである。
(中略)
彼らは、いじめが悪いことであると知っている。だが、みずからがしていることがいじめだと認識していないのである。
――「学校を変えるいじめの科学」 和久田学 日本評論社
「シンキング・エラー」とは、間違った考えのこと。
とくにこの本のなかでは、被害者が受ける影響に対して、「あれは遊び」「相手が悪いから」などと加害者はそれを大したことではないと考えてしまうこと(マーラ・ボンズのいう「不公平な影響」)を、シンキング・エラーと呼んでいます。
このシンキング・エラー、とくにASDの傾向をもっていなくても、だれでも陥る可能性があります。
前回の記事で、「私はASDの傾向があるから、それが原因で相手をいじめていることに気づかなかったのだ」というように書いてしまったけれど、実は特性というのはいちばんの要因ではなかったのかもしれません。
私はごくごく一般的に、相手の気持ちに共感できない、自分のやっていることがいじめだと気づけない子どもだったのかもしれません。
となると、対処法の話が少し変わってきます。
「発達障害のある子にはどうしたらいいんだろうね」じゃなくて、「みんな、どうしたらいいんだろうね」になります。
おお、ひろい。それこそ、一般的ないじめの予防と対処についてまとめたら、厚い本が一冊書けると思います。
なので今回は、前回書き出した、「私はこんなことに気づきにくい」という例をもとに、できるだけ具体的に予防と対処を考えます。
12月30日追記:
もらったコメントのなかで、たしかになと思うものがあったので補足です。
”もちろん部分的に重なるところはあるけど、子どもの共感性を高めることと、ASDの(子どもが)共感を「理解する」ことは分けて考えたほうがいいと思う。
いじめについては、ASDはまず「理解」の段階が必要なんだよね。
出来事に対してどのような感情が想起するか
その回路が独特だから
自分の回路を客観的に見て、一般的な回路を知って、その2つの回路を比較する段階があると思う”
感じ方の違いや、ASD特性をもつ人が無意識的/意識的に行っている「自分はこう感じるけど、他の子はこう感じるらしいから、」の変換プロセスについては、またこんどまとめてみようと思います。
じゃあ、どうすればいいんだろうという話<予防と早期発見>
<仲間から嫌われるようなこと>
-
場の雰囲気を読み取るのが苦手+メタ認知が苦手
→自分がしたい話を唐突に始めてしまっていること、自分が思ったことをすぐに口に出してしまっていることを自覚しづらい
私がしーちゃんから教えてもらって、「わあ役立つなー」と思った方法は、自分の話を始める前に「ところで」「話変わるけど」と付け加えるということ。
簡単だけど、実践しやすいです。他の子にも役立つかはわからないけど、同じような特徴がみられる子には教えてあげたい。
逆に、小さい頃よく言われていたけどあまり効果ないなと思うのは、
「言う前に、相手がどう思うか考えなさい!」「自分が思ったこととか、ほんとうのことでも、自分が言われて嫌な気持ちになることは言わないの!」
という教え方。
相手の立場にたって考えるということ自体が、ASDの傾向をもつ人間にとってはものすごくエネルギーを使う難しいことです。
何より私の場合、考えたところで「私だったらそれくらい言われても別に気にしないけどなー?」という結論になることも多かった(なのに言った結果怒られてばかりだった)からです。
先週もあった例。
大学のグループワークで、「その方法は、さすがに効率悪すぎると思います」と言ったら、相手をひどく怒らせてしまいました。
私はちゃんと、言う前に考えたんです。私が、会ったばかりの他学科の子にそう言われたら、どう感じるかなって。
「そっかー、これは効率悪いのかー。グループワークは効率が大事だもんな、しょーがない。で、代替案はなんだろう?」と思う、と考えました。納得できる内容だったら別に何も困ることなくない?言い方はそんなに気にしなくない?
…で、他の人は、そういうふうに感じるわけじゃないみたいです。
どうして相手の方がそんなに怒っているのかよくわからなかったのですが、話を聞いたネコちゃんから、「そりゃ、遠回しに『あなた頭悪いですね』って言ってるから、イラっとさせるんだよ!」と言われてやっと気づきました。
何度も同じミスをしています。でも小さい頃何度も言われていたから直らない、「言う前に、相手がどう思うか考えなさい!」の癖。
そんなわけで、ASDの特性をもつ子どもに必要なのは、思考の方法のアドバイスというよりは、言葉の使い方の実践的スキルなのかもしれません。
<仲間から嫌われるようなこと>
「グループ内でのルール」・「グループ内でのカースト」、正直、こればっかりは、大人の立場からは手伝えないんじゃないかなあという気がします。
ルールについては、例えば「へーえ、〇〇ちゃんたちは、他の子が誕生日の日には、みんなが来てからせーので『おめでとう!』って言うんだね。だから、その日早く来ても、先に『おめでとう!』とは言わないんだね。へえ、おもしろーい!」みたいなかんじでさりげなく教師が明文化するということも考えられなくはないけど……。
やっぱり、子どもたちだけの世界のなかのルールや”カースト”を察するのは、大人の視点からじゃ難しいと思います。
だから、ルールやカーストを破っても仲間外れにされることがないようなクラスの雰囲気づくりをすることが、先生としてできることなのだと思います。
具体的には、先生が積極的に、クラスのなかの暗黙の了解をぶち壊していく、とか…?うーん、そのへんは、また本とかで詳しく調べたいと思います。
<仲間から嫌われるようなこと>
-
人の表情や場の雰囲気を読み取るのが苦手
→相手が気分を害した表情をしていること、場が凍ったり冷めたりしていることを察知しづらい
これもよくあるソーシャルスキルトレーニングの内容になるのですが、 「人の表情や場の雰囲気を読み取れるように練習する」というよりは、「こういうことを言ったら、人は嫌な気持ちになるよ」「だからこうすればいいんだよ」という具体例をひとつひとつ教えていくほうがASDの特性がある子には実践しやすいのだと思います。
それはたぶん、私が小4のときに、担任の先生が教えてくれたようなことなのです。
「人の見た目に関することは、言ったり、笑ったりしたらいけないんだよ」とか。
「誰かの意見に反対するときは、頭ごなしに否定するんじゃなく、まず、『あなたの言うことはわかりました』と伝えるといいよ」とか。
シンプルな言葉で伝えるほど、もちろん誤解や例外も出てはくるのですが、最初の「きほんのルール」はかんたんなもののほうが助かるなあと私は思います。
<いじめられているということ>
-
人の表情や場の雰囲気を読み取るのが苦手
→自分が無視・シカトされていることに気づきにくい
-
皮肉や嫌味を言われても語義通りに受けとる
→相手の悪意に気づきにくい
なんかもう、これは気づかないままでいいんじゃないかな、と思います、個人的には。
気づかないままハッピーなら、それはそれでいいと思うんです。
<いじめられているということ>
-
「常識」を学ぶのが苦手
→「常識的に考えて、さすがにそれはおかしい」とならず、いやがらせをなどを受けても、「なんか嫌だけど、これはそういうものか」と納得してしまう
→先生や親への報告が遅れる
ただ、嫌がらせが物理的な身体的な危害に及んでくると、「気づかないままハッピーならそれでOK!」なんて言ってられません。
「カマキリを食え」とブロック塀の前に頭を抑えつけられたこともあったし、交通量の多い国道を「渡らないと殺す」と脅されたこともありました。
でも、お母さんにも先生にも報告はしませんでした。嫌には嫌だったけれど、そこまで辛いわけではなかったからです。
ふつうに危険なこともあるというのもそうだけど、自分の痛みに気づけないと誰かの痛みにも気づけないと思うのです。
この後の話になりますが、「これは嫌がらせをされているんだ。自分は嫌な思いをしているかもしれないんだ」とわからないと、他のだれかにも同じことをしてしまうかもしれないからです。
小さい頃の私に教えてあげたいなと思うことは、大きく2つあります。
ひとつは、「これは、『それはいや』って言ってもいいことなんだよ」という事がらの事例。
苦手な先生から、掃除の時間、大の苦手な水道の排水口を洗うように命じられること。
苦手な友達から、帰り道、大の苦手なナメクジをつまむように命じられること。
このふたつは、私にとっては大した差はありません。
両方とも「いやです」なんて言ったら怒られるのに、どうして前者は拒否したらいけなくて、後者は拒否すべきなのかがよくわかりません。
先生の言うことを聞かなくちゃいけないということも、△△ちゃんの言うとおりにしないといけないということも、中学校の頃までの私にとっては同じ意味でした。
違いは、いまだによくわかりません。
今のところは、「いやなことは、相手がだれでも、『それはいやです』って言ってもいいんだよ」と伝えることにはしています。だって私はそう思うから。
いやでもやらなくちゃいけないこと(掃除とか勉強とか)だったら、そのことは、後から教えてもらえばいいんです。「いやなんだね、わかった。だけど、これは~だから、がんばってやろうね」ってやさしく教えてもらえたら理想です。
だけど、世の中、ちょっと違うみたい。
「いやです」と言っていい相手は、ほんとのほんとは、だれでもじゃないみたい。
私にはまだわからないんです。だから、早くルールを勉強して、子どもに自信をもって伝えられるようにしないといけないな、と思います。
小さい頃の私に教えてあげたいなと思うこと。
もうひとつは、「いやでもいやじゃなくても、これは『したらいけないこと、されたらいけないこと』なんだよ。すぐ大人の人に言うんだよ」ということがらの種類です。
さらに細かく分けると、「したらいけないこと」と「されたらいけないこと」となります。
大人からしたらいけないと言われていることは、ほかの友達から頼まれたり、命令されたりしてもやってはいけないということ。
例えば、太い道路を信号無視して横切ること。誰かに痛い思いをさせること(これが「嫌な思い」だとちょっと難しくなるのですが、「痛い」ならまだある程度の共通認識はもてるのかなと思います)。お店や他の人のものを盗むこと。などなど。
これは、文にしてきちんと伝えれば、わかりやすいんじゃないかなと思います。
個人的に難しいなと思うのは、「されたらいけないこと」を教えることです。
高校生のとき、部活のある先輩に狭い教官室に呼ばれ、体の一部を触られるということが何度かありました。
当時は親戚のおにいさんに頭を撫でられる感覚と同じで、「よくわかんないけど、褒めてもらってるんだろうな!」と思っていました。
あるとき、部活の友達になにげなく「どうして◇◇先輩は、頭の代わりに胸をなでてくれるのかな?お母さんがそうしてたのかな?」と聞いてみました。そうしたら、ものすごく怒られ、心配され、一緒に部長のところに相談しにいくことになりました。
今思えば、重大な事例にならなくて、ほんとうによかったと思います。
性教育に限らずですが、「これはされたらいけないことだから、絶対に拒否しないといけない・大人に知らせないといけない」ということは、判断力が未発達なうちから繰り返し伝えておく必要があります。
「ついてイカない、車にノらない…」の「いかのおすし」のように、低学年のうちから覚えやすくかつ実践的な教え方ができたらいいな。
例えば、こういう資料や絵本を参考にしながら、大人がその子に合わせた自分のことばで語ってあげることがその子にしみこむために大切なんじゃないかと思います。
https://www.kobekko.or.jp/pdf/2014ryoiku.pdf
このへんは、学校の先生というよりもおうちの人の役目なんじゃないかなと思う人も多いかもしれませんが、なかなかそれでは足りないこともあると思うのです。実際、私の家でも性に関する話題は、生理に関することしか出てきませんでした。
だから、もちろん家の人が責任もって子どもに教えることも大切だし、学校でももっと扱うべきだと思うのです。
ちょっと話が逸れました。
「これは、『それはいや』って言ってもいいことなんだよ」
「いやでもいやじゃなくても、これは『したらいけないこと、されたらいけないこと』なんだよ。すぐ大人の人に言うんだよ」
このふたつを、小さい頃の私に教えてあげたい。
それができないから、いじめと犯罪を防止し早期発見するために、これから出会う子どもたちにしっかり伝えたいなと思います。
<人をいじめているということ>
-
人の表情や場の雰囲気を読み取るのが苦手
→「相手が嫌がっている、悲しんでいる」ということに気づきにくい -
「常識」を学ぶのが苦手
→善悪の判断の発達が遅れがち
→「悪いこと」と思わずにやってしまう
これも、2つの方向からのアプローチがあるのかなと思います。
ひとつは、「人がいやだと感じること」「相手の気持ちがどうであれ、したらいけないこと」を教える方法。
さっきの「自分がいやだと感じることに気づかせる」というところとつながってくるので、並行して子どもに伝えていければよいかなと思います。
予防と早期発見の観点からもそうですが、それらのことをしてしまったあとで、「それはいけないことだったんだ」とどう気づかせるかも重要になってくると思います。
もうひとつは、少し難しいけれど、相手が嫌がっているときの見分け方を教える方法。
ASDの特性がある子には、「こんな表情のときは…」なんて苦手な方向に走るより、言葉を使った直接的な方法を身につけさせられればなと思います。相手に「これ、嫌じゃない?大丈夫?」と口頭で確認するといったような。
例えば、私個人がよくやるのは、もしかして相手怒ってる?悲しんでる?というときに、「私はこういうつもりでやったんだけど、あなたはどんな気持ちだった?」と聞いてみること。
私は知らないうちにきつい言動をして相手を嫌な思いをさせてしまうことが多いので、これがわりと誤解の紐を解くのにいいみたいです。
あと、よくわからなかったら、後から他の友達に確認するのも手。私もよくネコちゃんたちに「なんかこんなことしたら相手が怒っちゃったみたいなんだけど、なんでだと思う?」と聞いてみて、原因究明と改善につなげるようにしています。
気づけない子のとなりで
ざざざっと書き出してみたらこんなかんじ。長くなりました。
いじめられているということにも、自分が人をいじめているということにも、気づきにくい子どもたち。
発達障害をもつ子みんながそうであるわけではないけれど、仮にそうだとして計算すると、クラスに「気づきにくい子」が何人かはいることになります。
そういった子どもたちへの対処法を教えてくれる本はたくさんあるけれど、「私は『気づきにくい子』でした。あのとき、こうしてほしかった」が書いてある本やマンガはそう多くありません。
だから、将来教員をめざす自分自身のためにも、書いて残しておきたいのです。
私は、人にいじめられていても、人をいじめていても、そのことに気づきにくい子だった。
あのとき、こうしてほしかった。
だから自分は、そういう子に出会ったら、となりでこんなことをしたい。