かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

かってに大きくなるからだ

「せんせいって、おとな?こども?」

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支援級の子たちにときどきそう聞かれます。

他の先生や支援員の方々はみんな三十代以上だし、私だけちょっと別の存在として見えるのかもしれません。

聞かれるたび、だいたい私は聞き返すことにしています。

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この質問返しには、試すような意図はありません。

私はシンプルに、彼らの中で「おとな」ってどんな存在なのか知りたいのです。

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前にそう言ってたのは、3~6年生の子たち。

 

ちなみに今日は、

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なんていう意見がきて、思わず苦笑い。

 

「成人式、っていう、これからおとなですよーの式はしたよ。

 だから、国のルールだとおとなの扱い。結婚もできるし、お酒も飲んでいいの」

なんていうつまらない回答になってしまいました。

 

それを聞いた子どもたちは口々に
「かわいそうだね!」
「いやだー」
と言いました。

 

え、なんでかわいそうだと思うんだろう?と一瞬不思議に思ってから、もしかしてと思い当たりました。

 

 

今日、成人式を「かわいそうだ」と言った子どもたちは、二分の一成人式を今週末に控えた学年でした。

 

 

 

知らない間に大きくなるからだ

 

誕生日も進級も二分の一成人式も、勝手にやって来るイベントです。

何もしてないのに、どんどんカレンダーが進んで、何やら周りに祝われる。

そして、「明日からはお兄ちゃんだね!」だの、「四年生になったら、ひとりで○○しようね」だの言われるのです。

 

私が出会ってきた、聴覚障害や知的障害をもつ子たちの多くは、それらのイベントを必ずしも心待ちにはしていませんでした。

みんなにハッピーバースデーの歌を歌ってもらったり、プレゼントをもらえるのは楽しみにしていたけれど、「次は六年生だね」などと声をかけられると、すっと目を逸らすのです。

 

 

”あれ、なんかパパ、さいきん抱っこしてくれないな”

”なんで「小さい子のお手本に」なんてならなくちゃいけないの?”

障害があるなしにかかわらず、大きくなる過程のどこかで、誰しもそんなふうに思うんじゃないでしょうか。言語化して考えているかはわからないけれど。

 

その感覚が、聴覚障害や知的な発達がゆっくりな子どもたちの場合は、なおさら強いのではないかと思いました。彼らの学力や精神的な成長はどうしても、一般的に年齢に求められるレベルに及んでいないことも多くあるからです。

 

がんばってもがんばっても、要求される水準が日に日に高くなっていく。「もうこれぐらいできてあたりまえ」が増えていく。「他のクラスの子」との差が開いていく。

それを、こども心にも感じているように見えます

 

年齢や学年を理由に注意されるたび、不服そうに返事をする彼らの胸の内には、もやもやと重たい霧のような不安が溜まっているのかもしれません。

 

知らない間に大きくなってて、別になりたかったわけじゃなくて。なのに、どうして急にお兄さんお姉さんとして振舞わなくちゃいけないのかなんて、私も納得のいくような答えを返せません。

「たくさんの人といっしょに生きてくためには〜〜」とか、それこそセンセイのありきたりな返答しか浮かばないのです。

小学校低学年まで指しゃぶりをしていて、なぜ「もうやめなさい」と言われるのかがわからなくて、すごく悲しかった気持ちは鮮明に覚えているのに。

 

それでも、子どもに教えなくちゃいけない。

いやだよねぇ、理不尽だよねぇ、わかるよーなんて言いながら、今日も甘える子どもを自分の背中からひっぺがして、ひとりで着替えさせて。

 

そうやってごまかしごまかしやっていくうちに、気づいたら「おとな」になっていくものなのでしょうか。

私は、「おとな」になれてるんでしょうか。

 

 

考えてもわからないけれど、とりあえず今日も、まるでおとなみたいに振舞うしかないのです。