それでもまだ、「ふつう」の先生になりたかった
「イヤーマフを外して過ごそうキャンペーン」 in 地元
東京で過ごす間は、小学校ボランティアを除くほとんどの外出のときにイヤーマフをしているのですが。
年末年始の帰省の間は母がピィピィ言うのでつけることができなかったり何だりで、久々に騒がしい世界に浸かって生活していました。いやーしんどかった。
外して毎日暮らしてみて、
「やっぱり、ふつうの先生になるには、 イヤーマフ外して生きられるようにならないと」
と思いました。年末ぐらいの話です。
近所の子どもが家の前でボール遊びをしていて、車が近づいてきて。
咄嗟に、「車来たよ、塀のとこ寄んな~」と声を上げ、それから気づきました。
あ、私これ、東京じゃできてなかったな。
イヤーマフしてたら、こんな瞬時に声出せてなかったな、と。
耳栓やイヤーマフをしているときも、物理的に発声が妨げられるわけではありません。単にしんどいから声を出さないでいるだけ。
必要に迫られれば出すことはできます。けれどそのときだってどうしても、一瞬、間が空きます。肩が勝手にぎゅっと竦んでしまうんです。
イヤーマフつけて話したときの、骨導で音が反響している状態の感覚。あの鼓膜を握り締められるような痛みと恐怖を頭よりまず体が覚えていて。
でもそれじゃ、小学校にしろ特別支援学校にしろ、あまり先生には向きません。
子どもに迫る危険を察知したら、瞬時に注意喚起しなければならないからです。(ろう学校では声ではなく手話や旗などでその役割を担いますが、あくまで例外です)。
実際、支援級でボランティアしているときも、何度もそういう場面がありました。
ここ1年間ぐらい。
ずーっと、同じことをぐるぐると考えています。
知りたかったんです。
なんのも配慮もない、「ふつうの先生」として、私はやっていけるのか。
そもそも「ふつうの先生」を目指す必要はあるのか
ある意味では、私は「ちょっとだけ変わった先生」を目指すつもりでいます。
子どもたちの年齢や発達の状況にもよるけれど、私の発達障害のことを子どもたちに隠さないでいたいなと思います。
「こういう人もいるんだよ、いろんな人がいるんだよ」って。 私だからこそ、教えられることがあると思うんです。
だけど、それはあくまで、 「先生ね、チーズアレルギーだから、給食のチーズは食べられないんだよ」 みたいなものではないでしょうか。
なんて説明したらいいかな、それは「ちょっと苦手があるだけの、ふつうの先生」。 そこは、私もなれるかもしれません。
でも、私の言いたい「ふつうの先生」って、そういうことじゃないんです。
朝の集会で、音楽クラブの演奏に合わせて全校で大合唱。私も先生として、積極的に声を出す。
午前中は地域の商店街への校外学習。都会の大通りをとおるので、子どもたちに万が一のことがないよう細心の注意を払いながら、クラスを率いる。(中略)
そういう、教師としてあたりまえのことが、あたりまえにできる先生が、「ふつうの先生」。
実際に小学校の担任をもったら、 「じゃ、うるさいから先生出てるわー」なんて、掃除や昼休みのたびにぷらっと教室を空けることなんてできない。校外学習の引率でイヤーマフをしていたら、子どもたちに自動車が迫っても気が付けない。
職員室で何らかの配慮をもらうことはできても、子どもたちとの毎日を自分に過ごしやすいような環境に整えてもらうことは難しいと思うのです。
「ふつうの先生」になる必要性はなくても、ならざるをえないんじゃないかな、と思っています。
そんなわけで、実家滞在中は、「イヤーマフを外して過ごせるようになろうキャンペーン」でした。母や祖母にもそれとなく勧められるしね。
…………結果。
薬を飲んでも耳、目、鼻の過敏が収まらなくなり。
鬱病が再発しかけ。
高速バスのチケットを取り。
両親の涙ながらの謝罪と説得 in my bed を振り切って、東京に戻ってきました。
まあ、こうなることは予測できたんでしょうけどね。
ニンゲン同じ失敗を繰り返してしまうものです。反省反省。
人のブログを読んで、いろいろつながったこと
ということで、静かな部屋で一日中寝たり、絵を描いたり小説を書いたり好きなことを思う存分して、だいぶ心と体の調子が戻ってきました。これが今日。
同年代の人が書いたブログを読んでいて、くるくるとマウスをスクロールしていた手が止まりました。
「普通」を定義する
そして、自分がずっとハテナを浮かべていた「普通」というラスボス。これはずっとずっと考えていたんだけど、最近になってやっと自分なりに答えが出せた。
普通ってのは「一般的」とか「マジョリティ」とかではない。
普通というのは、「自分の中だけにある常識」だと落ち着いた。
要は、自分が思っている普通は誰かにとっての異常な考えなんですよね。
悪い見方をしたら自分を正当化するための荒技かもしれないけれど。
でもこれは、自分が短い人生の中でたくさんの人と関わってきた中で出した一つの結論でした。
僕が選んだ仕事もそう。
自分の常識を突き詰めた結果こうやってブログを書いているけど、誰かにとっては異常者。
「当たり前」は全員違う。これの本当の意味を身に染みて理解できた。
この文章そのものが響いたというよりは、これを読んで、実習先の先生などいろんな人から教えてもらったことや、支援級の子どもたちと一緒に過ごして見てきたものが、つながったように感じました。
散らばっていたパズルのピースに、鍵となるひと欠片が落っこちてきて。ようやくそれらの組み合わせ方が分かって、「あ、こんな絵になるのか」って見えたような。うーんなんて言えばいいんでしょう。
とにかく、ばらばらだった経験から、ひとつの意味を学べたように思えたんです。
「普通」
「あたりまえ」
……そして、「教師としてあたりまえのこと」
ずっと探して、ああ手に入らないと嘆いていたそれらは、実体のない霞だったのかもな、と思いました。
確かに、大多数の教員に求められている能力や資質は存在します。知識、価値観や考え方も含めて。
でも、それを「普通」とみなして、「普通にできること」を求めているのは、結局自分だけでした。
自分の中だけで勝手に評価項目を作って、アー足リナイ!とひとりで騒いでいるだけでした。
私は今まで、字義上の定義だけ覚えて、理解したつもりになっていただけだったんだな、と気づきました。
ボランティア先の知的障害特別支援学級。
クリスマス頃にも、小学校高学年の女の子にこんなことを言われたなーって。
「せんせ、九九プリントやりたくない。
ふつうは、かけざんって、2年生でやるんでしょ?
これ、ほんとは、もっと小さい子のためのやつなんでしょ。やりたくない」
そのとき私がなんて返答したのかは忘れてしまったけれど。
でも、子どもたちが「ふつうは」とか「他のみんなは」とか「私だけ」と口にするたび、いつも私は
「そんなのないよ。〇〇くんは、〇〇くんのことをすればいいんだよ」
とか
「みんながどう言うか、普通はどう思われるかじゃなくてね、ほんとに好きなこと、自分がどんな人かは自分がちゃんとわかってればいいんだよ」
と話していました。教えたつもりになっていました。
でも結局のところ、慣れた言葉をこねくり回してるだけだったんだなあ、私は。たくさん本を読んで、人から話を聞いて、それを子どもたちに伝えて、分かったような気になっていただけでした。なーんにも教えてなかったんだ。
「ふつう」の先生の代わりに
ずっと、ふつうの先生になりたかった。
でも、「ふつう」なんてないと思い出せた今は、自分がどんな先生を目指しているのか、ひとつひとつ細かく見ていこうと思いました。
曖昧な理想像ではなく、自分が何を求め、自分に何が必要なのかを分解して、明らかにしなければ。
例えば、生活面。
私は、嗅覚・触覚等の過敏の影響もあって、食べ物の好き嫌いがとってもとっても多いです。学校の給食も、苦手な料理ばかり。
だけど、子どもたちの前では、顔をしかめずに食べられる先生になりたいです。
ちなみに今も練習中。「ごっくん」はせずに、多少は咀嚼してから飲みこめるようにはなってきました。
お箸も、苦手だけど、子どもたちには綺麗な持ち方で見せられるようになりたいな。その持ち方を強要はしないけど、文化として正しい持ち方に触れさせたいものです。
こんなふうに、「なりたい先生像」の項目は、いくらでも出てきます。
そのなかで、一体どれがその現場で求められているもので、どれが自分には合っていなくてどうしても難しいものなのか、などは、また追い追い見極めていこうと思います。
引用したブログの筆者の方は、「普通」を「自分の中だけにある常識」と定義していました。
私の場合はどうなんだろうなー、とゆず湯に浸かりながら15分ほど考えて。
とりあえず、今のところの定義ができました。またのちのち更新していきましょう。
私の中で「普通」とは、
「今まで見てきた人間のなかで、大多数の人が共通してもっているもの(性質や振舞いなど)」。
もちろん、社会的動物である人間として現代日本で生き抜くためには、その「大多数の人が共通してもっている」行動の仕方のルールや価値観を、ある程度把握しておくことは必要だと思います。
(言葉が堅いなあ、やだなあ……「東京の電車でポテチを食べるのはマナー違反」って知っておくのも大事だよね、ってことです)
大切なのは、
・それが絶対的なものと思いこまないこと
・それを押しつけられたときに「でも、自分は自分」と胸の奥で思えること
(その場では従ったりとか、求められる別の行動をしたとしても)
なんじゃないかなあ、と思います。今のところは。
また改めて、いろんな本読んだり、いろんな人とお話ししたいなーと思いました。
ということで、しばらくブログを書いていなかったけれど私はとっても元気です。
おしまい。