3月20日 車の窓の雨粒
東田直樹さんという、重度の自閉症と診断され、会話でのコミュニケーションは困難ながら、筆談やポインティング、パソコンを操ってすばらしい詩や随筆を残している作家の方がいます。
友達から勧められて、その方の本を読むこと3冊目。
心地よく読んでいる途中、急に効果音がついたように頭に飛び込んでくる一節がありました。
遠くに忘れていた幼い頃の記憶が、一瞬で力強く引き戻されてきました。ぐいっと胸倉を掴まれたみたい。懐かしい感覚がじんわり追いかけてきます。
それは、普通の雨と違う、新幹線の窓の雨粒についての章でした。
新幹線の窓を打ちつける雨に、リズムはありません。
(中略)
ひと粒ひと粒が、自分の意思で窓に張りついてきたかのような動きで、僕の目を釘づけにします。
ただの雨粒なのに、それぞれが違う速さで流れだしたとたん、神様から命を与えられた存在に変わるのです。
東田直樹「跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること」
出版社:イースト・プレス
717ページ 新幹線の雨
懐かしい、懐かしい、しあわせな気もちです。
小学校の頃、おじいちゃんが車でマーチングバンドの送り迎えをしてくれました。おじいちゃんの車は、前と後ろのガラスの上のほうに、それぞれ緑色になっている日よけの部分がありました。
その緑色の部分から、赤ちゃんの雨粒が次々とすべり降りてくるのです。ぷちんぷちんと卵から孵ったばかりなのです。彼らが前をいく兄弟の跡をつけていったり、ちょっとすねて違う道を通ったり、仲間の雨粒とくっついて強くなったり、無慈悲なワイパーにいっせいに刈り取られたり、運よく生き残って川下(ガラスの下端)に命からがらたどり着いたりするのを、眺めるのが好きでした。
いつだか、「にごった白の空が背景にあって、おじいちゃんの車のたばこ臭さがあるから、これはかんぺき!」と思ったのを覚えています。
母方の実家に向かうため、父の車の後部座席に乗っているときは、登場人物の雨粒はみんな少年でした。
高速道路の壁と一緒に、勢いよく後ろに駆けていきます。透明な粒は、つぅー、つぅーっとすべりながら、口々に「どうして?どうして?」と言っています。(どうしてそう思ったのか、今はもうよくわからないけど)
夜の雨はごほうびでした。
フロントガラスに並べられた雨のひと粒ひと粒のなかには、それぞれ車用の信号機の赤、歩行者用信号機の緑、街灯の白とオレンジ、それを反射する道路のオレンジ、目の前の世界にあるぜんぶの光が、ていねいにひとつぶずつ嵌めこまれていました。
それが何百何千とガラスに勢ぞろいしているのだから、真っ黒なシルクの布地の上に置かれた、豪華な宝石と言ってもまだ足りないほどきらびやかでした。あんまり眩しいから、じっと見つめることはできないけど。きっと本物の宝石ってそういうものなんだろうな、と思っていました。
そんなふうに、車の中から雨粒を目で追ったいくつもの場面と、そのときの憧れるようにわくわくした気持ちをいっぺんに思い出しました。
あんなに楽しくて好きだったのに、いつの頃からかやらなくなっていた日課です。どういうわけか、高速で流れる雨粒を目で追い続けていると車酔いすると、知らず知らずのうちに学習してしまったのでしょうか。
大人になった今でもそれを楽しむ(たぶん私とは似ていて違う楽しみ方なのかもしれないけど)東田さんの雨の見方を、もっと詳しく聞きたいと思いました。あと、ちょっとうらやましい。質問したいことがたくさんあります。