かっぱちゃんの耳

感覚過敏やらADHDの診断をもらった大学生が、特別支援学級の先生になりました。

3月28日 感覚世界の雨

しーちゃんに何度もおすすめされた本を買いました。高かった。

でも、中身はとても興味深かったです。

とくに、発達障害についての章。先入観で無理やり自分のことに当てはめたくないよなあと思い、何も考えず知識の吸収として読んでいたのですが、どうにもこうにも納得してしまう。

だんだん、自分があたりまえに感じてきた現象を細かく外側から説明されて、マジックの種明かしでも覗き見ているような、ちょっとズルしているような気もちになりました。

 

 私たちのまわりには無数の視覚的・聴覚的な感覚刺激があふれている。生物的にみれば感覚受容期は(可視域・可聴域の刺激であるかぎり)それらをすべて生理的にキャッチしているはずである。

 

 認識の発達とは、それらのなかから社会的に「意味」を構成するものだけを<図>として切り取れるようになること、窓の外に目をやれば、無数の感覚刺激の洪水でなく、ただちに「家」や「木」や「道」からなる「街並み」がみえるようになることである。さまざまな聴覚刺激が飛び交っていても、会話の相手の「言葉」(意味ある音声)だけが<図>となって耳に入るようになることある。

 

 これに対して、認識の発達がおくれて、感覚したままに外界を認知的にとらえる度合いが高いほど、その体験世界はさまざまな感覚刺激にじかにさらされ、入り乱れる刺激に混乱させられやすい世界となる。それが感覚刺激への「過敏さ」としてあらわれるのである。

 

 

滝川一廣 「子どものための精神医学」 医学書院
第10章.発達障害における体験世界 7.感覚世界の混乱性

 

小さい頃見ていた風景や、調子があんまり良くないときに見えるやたらぎらぎらつぶつぶした風景。

夜の雨はごほうびでした。

フロントガラスに並べられた雨のひと粒ひと粒のなかには、それぞれ車用の信号機の赤、歩行者用信号機の緑、街灯の白とオレンジ、それを反射する道路のオレンジ、目の前の世界にあるぜんぶの光が、ていねいにひとつぶずつ嵌めこまれていました。

それが何百何千とガラスに勢ぞろいしているのだから、真っ黒なシルクの布地の上に置かれた、豪華な宝石と言ってもまだ足りないほどきらびやかでした。あんまり眩しいから、じっと見つめることはできないけど。きっと本物の宝石ってそういうものなんだろうな、と思っていました。

3月20日 車の窓の雨粒 

 

見えるものからもくもく出てくるイメージが四方八方変な方向に止まらなくなったり、想像までいかなくてもひとつひとつの見えるものが頭の中に押し入ってきてぶわわわわっと膨らんでしまうときです。

景色そのものは変わっていなくても、いつもと違う世界を見ているようなかんじ。粒として入ってきちゃうというか、とにかく変に見える。まぶしい。

目をつぶってじっとしても、見え続けてしまってぶわわわわ。

12月12日 「想像が膨らんで気持ちわるい」ということ

 

あれは、滝川さんの言葉で言えば、「意味化(概念化)されていない、シャープでナマな感覚そのものの世界」だったのかなあ。

もっと発達の凸凹の大きい人たちが見ているその鮮やかな世界に、私も小さい頃はいたのかもしれません。それで今でもときどき頭がわーっとなりかけるときは、そこに戻っているのかもしれません。

 

 

さっき外を歩いていたら、雨が降り出しました。

道がぽつぽつ濃く染まっていきます。「雨」にしか見えませんでした。

それがたぶん、認知で世界を切り取っているとき。「空」から「地面」に「雨粒」が打ち付けているのを見ています。だから今日は、調子がいい。

 

一方、調子が悪い日は、それがすごく気もち悪く見えるのです。

水が上から落ちてくるんじゃなくて、ぶちゅんぶちゅんと不規則に地面から黒いものが湧きだして、ひと粒分ずつ潰れます。それがどんどんくっついて、元の色を塗りつぶしていってしまいます。

おそらくそういうときが、感覚そのままに世界が見えているとき。しーちゃんの言葉を借りれば、「認識で切り取った世界と感覚で切り取った世界とのバランス」が崩れているとき。

私の場合、二週間から一か月に一度くらい起こります。

 

 

認知の枠で名前をつけて、意味のあるものとして切り取っていない刺激は、皮も葉も取り除かずにダイコンをかじっているようなものだと思います。

そのまんまのダイコンと、そのままの生魚を飲み込んで、口にしょうゆをそそいで砂糖を振りかけているようなもの。当然、食べていればすぐに「もういらない!」となります。

でもそれは、舌が人より敏感だからではありません。いらない部分が捨てられていない、量の調節もされていない素材のまま、どばどば口に入ってきてしまったからです。ちゃんと取捨選択と調節をしてある他の人は、「おいしい『煮つけ物』だね」となります。

 

滝川さんも出している例(第10章.発達障害における体験世界 6.高い感覚性の世界)で言えば、聴覚”過敏”も同じことだと思うのです。

私は小さい頃から人より音のうるささに敏感だったけれど、妹に聞こえない音域や音量の音が聞こえるわけでもないし、音程や声質の聞き分けにずば抜けているわけではありませんでした。(発達の凸凹のある人のなかにはそこに才能を見出される人もいるそうですが、私はせいぜい人よりちょっと音感が良いぐらいでした)

単に、音が混ざってしまう。だから、ぜんぶまとめて、うるさく聞こえる。

読んだ話で説明するなら、それも、それぞれの意味ある音声が上手く切り取れないからなのでしょう。

 

 

豊かな感受性をもたらす能力が、同時に感覚の混乱性(過敏性)をもたらす。

滝川一廣 「子どものための精神医学」 医学書院
第10章.発達障害における体験世界 7.感覚世界の混乱性

 

両親は昔からことあるごとに、「かっぱは感受性が豊かな子だ」と私を褒めてくれました。小学三年生のときの先生は、私の作文や図工の作品を「見方や描き方がユニークですばらしいね!」と絶賛してくれました。

そうして褒めそやされて育ってきたので、「わたしは物の見方に才能があるにちがいない!」と自惚れながら生きてきました。常に自己肯定感が高いという意味では、それは悪いことだと思いません。

 

でもそれが、ずっと悩まされている聴覚過敏、ひいてはパニックにも直結している個性なのだと実感すると、すごく不思議な気もちです。

「早くこの耳治らないかな」と思っていたのに、それが自分のいちばんの誇りと同じモトから来てるとは。