3月3日 自分に甘く。
「お姉ちゃん、偉そうなこと言ってるけど、自分に甘いからねー」
「うんうん、かっぱは、自分に甘いよね」
昨日の夜、些細な会話の流れから、そう言って妹と母が笑いました。
ただ、それだけのこと。
それだけのことなのに、急に、周りのものがすべて嫌いになりました。
自分に甘い?
そんなの、わかってる。
これでも、がんばってるの。ちゃんとやることやって、できるだけ周りに迷惑かけないように生きて、それでもこれなの。
でも、やっぱりこれじゃ、だめなんだ。
わたし、これでも家でも家族の前でも一生懸命やってると思ってたけど、思ってただけで、まだ足りないんだ。
自分の家でぐらい、家族の前でぐらい、だらだらの甘々でいいじゃんって、あれは嘘だったんだ。
わたし、もうつかれたのに、もうがんばれるところないのに、あとどこをちゃんとやればいいの?
こたつの反対側でカーペットに顔をうずめながら、涙がつうっと流れて、またつうっと流れていって、うまくとめられなくなってしまいました。
ジッカに帰っているときは、父と二人暮らしの家よりもとても疲れます。
週末だから出掛けさせられることが多いし、家にいても休まりません。どうしたって家族の前では「いつもどおりの長女かっぱちゃん」でいるために「今はダメだモード」は常時発動。
家族と過ごすのうれしいのに、体のどこかをきりりきりりと何かに絞られているような息苦しさと居心地の悪さのなかで、なんとか毎回の帰省を乗り切っています。
そんなふうに追い詰められていた夜だったのです。だから、ちょっとしたきっかけで「今はダメだモード」のハチマキがはらりと取れて、慌てて、さりげなく布団に移動するようなことになったのだと思います。
もう、つかれた。
もう、このまま眠って、起きたくない。
本気でそう思いながら、苦しくなる息を湿った枕に押しつけて隠す夜が、最近ときどき、あります。
なんだかんだ朝起きれば、そんな気もちはすっかり薄まっていて、私はなんて軽率で失礼で馬鹿でどうしようもないことを考えていたんだろうと、ちょっと自分が嫌いになります。
ジッカでも、父との家でも、寝室は家族と一緒なのです。どんなに追い詰められていても、今のところはやっぱり、家族にはそんなお姉ちゃんの姿は、見せられないと気張ってしまうのです。
見せたところで。
苦しいのを嫌なのをこらえて、こんな様子を晒したところで、それが楽になるわけじゃないとわかっているのです。
寄り添おうとするけれど理解しない母と、理解してくれるけど寄り添おうとはしない父と…不安な姉を見て感じる不安を隠すため、姉を笑う妹の姿が、みえる。
これまでもそうだった。何度も伝えようとがんばった。素直になろうとがんばった。
がんばってきたけど、もう、もう、ほんとうにつかれてしまったんです。
「かぞくだし、いつかは」って期待しているから余計に悲しいのだとわかっているのに、「かぞくだけど、違う人間だからわからないことも多い」ってわかっているのに、それでもどこかで期待してしまっているのだと思います。
だからいちいち、深い意味はない家族の言動に、傷ついては、つかれるのです。
咲セリさんという方がいます。
中学生の頃、猫の表紙につられて書店でたまたま手に取った本の作者です。
たちまち、咲さんの書く文章の虜になり、その一冊を何度も何度も読みました。
まっすぐで、痛むほどそのままの感情が伝わってくるのに、やわらかくてやさしい文体なのです。読者に無理やり寄り添ってこない、ただただ咲さんは自分のことについて書いているだけなのに、どうしてこんなにふわっとしみこむのか。不思議で、憧れました。
それはさておき。
その後も、咲さんの本やブログ(ちいさなチカラ 〜猫エイズ、白血病、ガン…だけどシアワセ〜)はしばしばチェックしていたのですが。
この数年間、気になりつつも、読んでいない本が一冊ありました。
なんか、題名、重いし。内容紹介見たかんじも、めちゃくちゃ重いし。
比較的裕福で円満な家庭に育った私には、ぜんぜん共感できそうじゃないし。ていうか猫出てこないみたいだし。なにせ内容重そうだし。
と気が引けて、手をつけないでいました。
でも、いいかげん、自分で認めることにしたのです。
そんなこと私ほんとは思ってないよ、思うはずないよって自分にもワハワハごまかしていたけど、そろそろまっすぐ見ないとなんとかしていけない。
さいきん、ときどき私、生きていくのが、いやになることがある。
ちょっとだけ、みとめてやる。
そのことを自分で自分への証拠にするために、この本を買うことにしました。
そしてまた、本のなかのことばは浮き輪になって、ぷかぷかゆらゆら、私を楽にうかべてくれました。
頑張れなかった時に、自分を責めてしまったのです。
そんな時は、その中に、逆転の発想で、いいところをみつける練習をしました。
朝、寝坊して遅刻したら、それを責めるのではなく、「しっかり体を休められて、えらかったね」。
怒ってしまったら、「感情を押し殺さず、解放してくれて、ありがとう」。
毎日、毎分、毎秒、本当はずっと昔からそうされたかったように、自分に優しく接してあげるのです。
――「死にたいままで生きています。」咲セリ(ポプラ社.2015年)
そっか。
そうだった。
自分がまず自分に優しくしてあげたらいいんだ。
がんばってなくてもいいよって、じゅうぶんえらいよって誰かに言ってほしいときは、まずは自分が自分に言ってあげればいいんだ。
「そんなの誰にでもある」「言い訳するな」って言葉を、ずっと気にしています。
母上にも、父上にも、言われました。
でも、そのときそこまで気にしていたじゃありません。「ハイハイ、母上たちはまだ理解がないからね」って、わりとそこは諦めがついてた。家族や誰かに、ぐっさり傷つくほど何度も言われたわけじゃないんです。
ほかの誰でもなくて。
自分自身で「こんなの、誰でもあることなのに」って思ってしまう。
何度も気づいては、忘れて。思い出しては、やっぱりそんなことはないと思って。
あいかわらず、行ったり来たりしています。
それで、いいさ。
ときどき思い出してて、えらい。
わたし、がんばって毎日生きてて、えらい。がんばってる。
疲れるってわかってても家族に顔を見せに帰るなんて、すごくえらい。それでまたちゃんと次の日からトーキョーの電車と人ごみにもまれる生活して、すごい。とってもがんばってるじゃん。
自分に甘い。
周りにそうやって見えるぐらいが、ちょうどいいさ。
ちゃんと自分にやさしくできて、えらい。
自分に甘くできて、えらい。
もうしばらく、がんばらずにがんばって、ぷかぷか毎日、生きていこうと思います。